1883年(明治26年) – 1945年(昭和20年)

社会の動き

女性には国政に関する選挙権がなかったため、婦選獲得同盟等による婦人完全公民権運動が開始された。又、1930年に初の女性医学博士が、1931年に東京市初の女性小学校校長が、1936年に初の女性薬学博士が誕生する等、女性の社会進出の第一歩が刻まれた。1945年12月、衆議院議員選挙法が改正さ れ初めて婦人参政権が認められた。

会の動き

戦前は、1936年に弁護士法が改正されるまで、女性が弁護士や裁判官などの法曹にな る道は閉ざされていた。弁護士法改正後、1938年に高等試験司法科試験に3名の女性 が合格、1940年に初の女性弁護士3名が誕生した。敗戦までの間に女性8名が試験に合格した。

1946年(昭和21年) – 1974年(昭和49年)

社会の動き

1947年男女平等を保障した日本国憲法が施行され、同年、国連に婦人委員会が、労働省に婦人少年局が新設された。1967年、第22国連総会では「婦人 に対する差別撤廃宣言」が採択された。1972年、第27回国連総会で1975年を「国連婦人年」とすることを宣言した。裁判所においても、主婦の家事労 働を家政婦の賃金を基準として算定することが認められ(1967年)、女子若年定年制を無効とする初の高等裁判所判決が出るなど(1974年)、男女平等 の精神が少しずつ実践されてきた。

会の動き

戦後、憲法で男女平等が保障され、女性をしばりつけていた家制度を定めた民法も抜 本的に改正された。男女平等を実現するために、女性たちは力強く歩みはじめた。 1950年に当協会は発足した。当初、女性の司法試験合格者はごく少数で、全合格者約 500人のうち数名程度、その後少しずつ増え1970年代には20?30人になった。

1975年(昭和50年) – 1990年(平成2年)

社会の動き

1975年、女性教師、看護婦、保母などの育児休業法成立。1976年、民法の一部が改正され、離婚の際に婚姻中の氏と婚姻前の氏を選択できることとなっ た。1981年「女子に対するあらゆる差別撤廃条約」が発効し(日本においては1985年に発効)、これを受けて男女雇用機会均等法が公布され、1990 年には、男女の昇格差別が公序良俗に反するとの判決が出され(東京地裁)、また、セクシャル・ハラスメントによる損害賠償請求を認める判決が出された(静 岡地裁)。

会の動き

1975年、国際婦人世界会議が開かれ、国際婦人年10年が始まった。日本でも女性差別 をなくそうという社会の動きが強まった。1985年には男女雇用機会均等法が制定された。 こうした流れのなかで、司法試験合格者に占める女性の割合は5%から20%に増えた。女性の裁判所所長、弁護士会会長も続々と誕生していった。

1991年(平成3年) – 2000年(平成12年)

社会の動き

1995年に育児休業法が改正され介護休業の法制化され、1997年には男女共同参画審議会設置法が制定され、男女雇用機会均等法が改正されるなど、働く 女性の環境が徐々に整備されてきた。1998年、国連人権委員会で女性に対する暴力撤廃決議がなされ、1999年には、男女共同参画社会基本法が成立し た。一方、国務大臣に女性が任用され、女性知事が誕生するなど、女性の進出がめざましい年代となった。

会の動き

1990年代、社会の各分野で女性の進出はめざましいものがある。司法試験合格者のほ ぼ4分の1を女性が占めるにいたった。1994年に初の女性最高裁裁判官が誕生した。 社会の変貌に伴い、女性をめぐる新たな法律問題が発生している。女性法曹への期待 はますます高まりつつある。2000年、当協会は50周年をむかえた。

2001年(平成13年) – 現在

社会の動き

2005年12月、男女共同参画基本計画(第2次)が策定され、 2020年までに指導的地位に女性が占める割合が 30%以上になるよう取組を推進することが述べられた。法律面では、各分野で新法制定・大規模な法改正が相次ぐ。更に、司法改革に基づき、 2008年までに刑事裁判において裁判員制度が開始される予定。

会の動き

2003年9月ローエイジア東京大会において、当協会は「司法におけるジェンダー」をテーマとするセッションを企画・運営。 2004年法科大学院(ロースクール)制度が始まり、教鞭を取る会員の数も増えてきた。司法試験の合格者数が年間1500人という法曹人口激増の時代を迎 え、会員の活動範囲も広がっている。これに伴い、若手の法曹のためにキャリア・サポート・セミナーを開催するなど、当協会の活動も多様化してきている。